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能登半島地震から1年

【特集⑤】記者がみた被災地の1年間

日本農業新聞 中部西日本統括支所 島津爽穂

「能登半島地震から1年」特集について

 石川県の奥能登地域を中心に甚大な被害が出た令和6年能登半島地震から1年が経ちました。9月には、再建の兆しがみえた被災地を記録的な豪雨が襲うなど、災害が続くこの間、被災地のJA役職員は、自らも被災者でありながらも、地域のくらしと農業の復旧・復興へ、死力を尽くしてきました。石川県のJA中央会やJA青年組織・女性組織も、それぞれの立場で支援を続けてきました。

 この特集では、そうした各組織からのメッセージや取り組みをお伝えします。あわせて、震災直後から被災地取材を続ける日本農業新聞の記者より、これまでの被災地の姿を紹介します。
 ※この記事の最後に各特集へのリンクがあります。


 石川県で震度7を観測した能登半島地震は、農業現場に深い爪痕を残した。被害件数は、農地や農道、水路だけでも6,000件を超え、9月の豪雨でさらに被害は増えている。

 12月現在も現場を歩くと、全壊した家屋や崩れた道路、土砂や倒木の残骸、作付けを断念した農地など、地震発生から変わらない景色が広がる。農地復旧はこれから着手するところが大半で、復興への道のりはまだ遠い。

 災害から時間がたつとどうしても、〝遠い能登の話〟は過去の出来事の一つになりがち。ひとごとで終わらせることなく、南海トラフ地震が懸念されるなど災害が多発するこの国では、自分事として考えることが大事だ。

 長期間の孤立や人手・業者不足にあえいだ能登の姿は、過疎が進む各地の農村の未来とも重なる。関係人口づくりなど、農村維持の在り方や備えを振り返る契機として、能登の復興への道のりを引き続き紙面で伝えていく。

高さ20メートル以上あるビルが根元から倒壊。隣にあった建物は巻き込まれ、下敷きになった。地震から月日が経ってもなお、ビルが横たわっている状況が続いたが、ようやく取り壊し作業が進められている(令和6年1月、輪島市で)
避難所では避難者が米や野菜、海産物などを持ち寄り、国の支援物資が届き始めるまでの数日間、1日3食の“自給自炊”を続けた。「地域の人に温かい物を食べてほしい」と、地域のお母さんたちが腕を振るう(令和6年1月、穴水町で)
能登半島地震でアクセス道路が土砂崩れで埋まり、孤立状態が続いた石川県輪島市鵠巣こうのす地区。小学校の各教室には避難住民10~30人が寝泊まりしており、冷たい床に身を横たえていた(令和6年1月、輪島市で)
ハウスでは収穫を目前に控えていたイチゴが高設栽培の棚が落ちるなどの被害を受け、枯れてしまった。隣接するハウスは自主避難所として開放し、多数の人が避難した(令和6年1月、珠洲市で)
地震の影響で田んぼにできた段差と亀裂。亀裂は深いもので、腰まで埋まるほどだった。段差や亀裂は、田面やあぜのあちこちに見られた。農業生産法人の男性は「乗り越える」と短く言った(令和6年1月、輪島市で)
各地からボランティアが被災地の支援に駆けつけた。宮城大学の学生たちは、民家で散乱した家具などの片付けに参加し、一つ一つ「これも捨てますか?」と家主に問いかけていた(令和6年3月、能登市で)
1000年以上の歴史がある朝市は、地震後の火災で焼失。朝市で営業してきた2人は共に朝市を盛り上げていた亡き友人たちをしのび、静かに手を合わせた。後ろでは被災した建物の解体作業が進んでいた(令和6年6月、輪島市で)
白米千枚田であぜ修復のボランティアをする愛知県から来た20代の若者。元日の地震発生時、千枚田にいて孤立した。当時、愛耕会メンバーに助けてもらった恩返しだった(令和6年8月、輪島市で)
豪雨災害で、川の水があふれて水没してしまった稲穂。収穫目前だった。奥能登では、水が引いても倒伏のため収穫できない田が多くあった(令和6年9月、珠洲市で)
豪雨災害で川の水が納屋に浸水し、水没した高さを示す農家の男性。前日に稲刈りを終えたばかりだった。豪雨災害は範囲が限られるが、影響は地震より大きいと感じた(令和6年9月、輪島市で)
崩れ込んだ土砂や木が残る田の隣で、ノトヒカリの収穫。農地の復旧が進まない中、農家が可能な限りの最善を尽くした。農家の必死で諦めない思いがあればこそ(令和6年9月、輪島市で)
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