食・農・地域の未来とJA
里山と農の循環を取り戻す
令和のコメ騒動に思う、農業と社会の関係
コメの価格高騰が続き、農業への注目度が近年まれにみるほど高まっている。メディアによる報道は、一部には価格高騰の犯人捜しの様相を呈している。しかし、これを価格高騰の犯人捜しで終わらせてはもったいない。日本社会と農業の関係をより根本的に問い直す機会にすべきではないだろうか。農業は日本社会にどのような恩恵をもたらしているのか、あるいは、もたらして欲しいと期待されているのか。そうした恩恵が今後も安定的にもたらされるためには、誰がどの程度費用を負担するべきなのか。本来、コメの価格をきちんと議論しようとするならば、こうした点についての国民的合意が必要なはずである。
多面的機能論の功罪
それでは、農業が日本社会にもたらしている恩恵とは一体何であろうか。長らく日本政府が国際貿易交渉などの場で用いてきたロジックが多面的機能である。農業は、私たちの命を維持するうえで欠かせない食料を生産するという重要な役割を担っている。しかし、それだけではなく、大雨の際に農地が雨水をダムの様に一時的に貯えてくれる洪水防止機能、水を張った田んぼが地下水を涵養しさらには夏場の猛暑を和らげる機能、農地が様々な生き物の住処を提供する生物多様性保全機能など、多様な機能を提供している。農産物の輸入が拡大し、日本国内の農業生産が縮小すれば、その分、多面的機能も失われる。
長年繰り返されてきたこのロジックが意味を持つには、2つの点が見直されなければならないと考える。1つは、消費者がこうした多面的機能の恩恵を十分に認知し、消費行動に反映させてきたかである。残念ながら、筆者には、消費者の認知が十分には進んでいるとは思えない。JAや教育機関が連携して取り組む余地は大きいと思われるので後ほど触れたい。2つ目は、農業に携わる側が多面的機能の発揮に本気で取り組んできたかという問題である。従来の多面的機能論は、農業生産さえ維持されていれば、必然的に多面的機能も維持されるという予定調和論であった。そのような一面があるにせよ、農業は、やり方次第では環境を破壊することも事実である。農業が地域にもたらす恵みを最大化するためには、これからの農業はどのようにあるべきなのか。農業側から主体的に議論を喚起し、リードしていくことが求められる。
問われる地球の持続可能性
筆者が専門とするエコロジー経済学は、持続可能性を真正面から扱う点に特徴がある。経済成長による資源環境問題が深刻化するなかで、資源制約や環境制約を明示的に経済学の中に組み込もうとする試みとして生まれた。エコロジー経済学では、地球環境から資源を調達し、それを人間の経済活動に投入し、生産・消費を経て不要になったものを地球環境に廃棄するという経済活動の物質的な流れを重視する(図1)。この経済が持続可能であるためには、資源が持続的に供給されなければならず、また廃棄物が人や環境に損害を与えない形で処理される必要がある。この点に着目すると、資源を再生可能資源と枯渇性資源に区別することが重要となる。

出典)嶋田(2025)より転載
かつての農村での暮らしは、再生可能資源を巧みに利用することで成り立つ持続可能性の高いものであった。植物が光合成生産したものを、人間を含む動物が資源として利用し、その有機性廃棄物を微生物が分解して、再び植物が利用可能な形にする。植物、動物、微生物の3者間での物質循環は、人類が登場する以前から繰り返されてきた営みであり、人間が生態系の一員としてこの循環から資源を取り出すのであれば、永続性が保証される。
他方、現在の日本経済は、石油をはじめとする海外から輸入される枯渇性資源に依存している。そして農業生産もその例外ではない。化学肥料は、例えば肥料の3要素である窒素(N)、リン(P)、カリウム(K)をみても、その製造に、原油や天然ガス(窒素)、リン鉱⽯(リン)、カリ鉱⽯(カリウム)が使われており、何れも輸入される枯渇性資源に依存する構造だ。枯渇性資源という名称が示す通り、こうした地下資源は、採掘すればその分だけ埋蔵量が減少していくため、新たな採掘方法の開発や鉱脈の発見があるとはいえ、長期的にみるといずれ枯渇する。そのため、持続可能な資源とは言えない。
循環型の資源利用の要:里山
本当の意味で持続可能性を追求するならば、枯渇性資源への依存度を減らし、再生可能資源にシフトしなければならない。かつて、再生可能資源の供給源として大きな役割を果たしていたのが里山である。薪や炭などの燃料、萱などの屋根材、柴や草などの飼料や肥料、山菜やキノコのような食料など、農業生産と農村生活の両面にわたって様々な資源を供給してきた。人々は、薪を煮炊きの燃料とした後、残った灰を田畑の肥料に使うなど、無駄なく里山の恵みを享受してきた。近年、里山の持つ生態学的な魅力が広く知られるようになるにつれ、各地で市民による保全活動が展開され、かつての里山環境の回復が試みられている。しかし、こうした活動は、その多くが保全に主眼が置かれ、農の営みとの接続は限定的である。筆者が勤務する龍谷大学瀬田キャンパスには、大学が所有する約38haの里山林「龍谷の森」がある。農学部を有する大学として、里山の恵みを農の営みに結びつける取り組みを今後展開していきたいと考えている。
農業の循環型の資源利用は、狭い意味での里山に限られたものではない。瀬田キャンパスの地元集落の古老に学生とともにインタビューをした際に、次のような話を聞いた。
この集落では、里山から流れ出る谷に農業用のため池が築かれてきたが、戦後直ぐまでは、ため池の堤防の広い土手の草を刈る権利が入札にかけられ、その落札額が集落の重要な財源になっていたという話である。
現在の日本各地の農村では、こうした土手や畔の草刈りを誰が担うのかが問題になりつつあり、場合によっては出役者に日当が支払われる。こうした現状との対比に驚くばかりであるが、筆者が各地の古老にインタビューをした経験からは、戦後しばらくは、草を手に入れるために人々は競い合うようにして草刈りをしたという話はよく聞く。今を生きる人々が経験した、つい60~70年ほど前の話である。
このように、今は厄介者とされているものが見方を変えれば貴重な資源という例が身近にはたくさんある。循環型の資源利用に、決定打のようなものはない。例えば、薪を再生可能エネルギーの切り札として今のエネルギー需要を全て置き換えようとしたら、日本の山はあっという間に、はげ山だらけになってしまう。どれか1つの資源で全ての需要をまかなおうとするのではなく、地域の実情に応じて、身近に得られる様々な資源を賢く組み合わせて活用する。そうした姿勢が求められる。
農業の新たな価値の創造に向けて
里山の資源を中心に、身近に得られる循環型の資源を様々に組み合わせて農業や農村生活を営めば、枯渇性資源への依存度が低下し地球環境の持続可能性を高めることにつながる。同時に里山、ため池や水路などの土手、畔の手入れが行き届くことで、地域の景観が向上し、獣害対策にもなる。地域資源を活用した循環型の農業は、地域に新たな価値を提供しうるのだ。農業が提供する新しい価値が可視化されれば、冒頭で述べた農業を維持するための費用負担の議論も違ったものになるであろう。
様々な地域資源を活用した循環型の農業は、従来の狭い農業の範囲だけでは実現できない。また農家個人の取り組みにも限界がある。地域からの信頼が厚く、多様な事業展開で総合性を持つJAには、地域を取りまとめる役割を果たすことが期待される。
また、農業が地域にもたらす恩恵を広く知ってもらうために、小学校で実施される農業体験学習の重要性を強調しておきたい。筆者はここ数年、研究室の学生たちと奈良市で実施されている農業体験学習に参加している。この農業体験学習は、地域の方々が地元の小学校と15年ほど続けてきたもので、5年生の児童が田植えと稲刈りの体験学習を行う。子供たちは、普段経験したことのない水田の土の感触に歓声をあげながら、水田の中の生き物の多様さに目を丸くする。その様子を見ていると、児童たちが大人になった時の農業への見方に影響を及ぼす可能性に期待が膨らむ。JAは、地域の方々と協力しながら、こうした取り組みを推進するうえでも力を発揮できるだろう。


いずれも2024年6月 嶋田撮影
JAが本稿で述べたような取り組みを進めるうえで、農学部のある大学の存在を時折思い出して頂きたい。学問の蓄積と若者の柔らかい発想を持つ大学は、農業が新しい価値を生み出し、それを発信していくうえで様々な貢献ができる可能性を秘めている。里山を有する大学で教育・研究に従事する者として、そうありたいと思う。
<参考文献>
嶋田大作(2025)「入会林野の過少利用問題とスケール・ミスマッチ」『入会林野研究』第45号、pp. 3-17.